アートは所在なげに漂う

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1.はじめに

 美術やアートにも『文脈』がある。大抵の場合それは美術史と呼ばれる。固有の地域性を持つ美術史を日本美術史や西洋美術史と呼び、技法や技術に関するものを、技法史、技法書と呼んだりする。美術に関わらず、どのような学問においても歴史や技法の体系付けは行われている。逆説的に言えば、歴史や技法史をもっともらしく『文脈』として機能させることで初めてそのジャンルが学問として認知される。そういった意味から『文脈』を持たない学問はないと言ってよいだろう。
 美術やアートにも美術史がある以上、ある程度の学問として認知されている。例えば大学の枠組みの中にも、美術学部や芸術学部が存在していることは、学問としての美術やアートを担保しているとも言える。美術史においてもそれ以外の学問と同様に、『文脈』は研究者や制作者といった当事者によって語られ、言葉として継承させる。『文脈』とは継承することを前提に作られているようなものと言えるだろう。
学問を学問足らしめている『文脈』だが、私はここに何か釈然としない綾を感じることがある。それは体系付けられた『文脈』が、美術やアートといったジャンルには、本来そぐわないのではないかといったような感覚である。
学問が統計や体系を通じて、継承可能なものとして取り扱われるように、アートや美術を取り扱う事にどのような意味があるかについて考えてみることにする。




2. 感動は無口を装う

 はじめに論考の趣旨を明確化させるために、『文脈』の対になる言葉として『一回性』を上げておくことにする。『一回性』とは言うまでもなく、一回限りの不可逆的なもの、もしくは継承不可能なものである。美術やアートにおいての『一回性』とは、作品との出会いそのものであり、予備知識なしの偶発的な出会いを指す。自身の体験に当てはめて考えてみても、「美術作品に感動した!」といったような原体験は、基本的に『文脈』のようなガイドに依存していないことが多いだろう。「何だか分からないけど、目の前にある作品に感動した!」その個人的な感動を美術史のような『文脈』の中に見出すことは、ほとんど意味を持たない。『一回性』の感動の源泉は、個人のパーソナルな体験の集積から来るものであり、美術史の『文脈』を必ずしも必要としていないからである。
個人に訪れる「何だか分からない感動」の中には、元々比較不可能な人間のプリミティブな感情への訴えがあるのだろうと容易に想像が出来る。美術やアートは他の学問に比べ、比較的、個人の感情へのアプローチに秀でたジャンルではないかとも思える。だがそれは、裏を返せば言語化のしづらさであり、学問化されるべき内容を根本から否定しているようにも見える。故に学校教育やビジネスの場においても、美術やアートは非常に相対化されづらい立場にあり、世間から乖離しているように見られがちだ。
では具体的に美術の『文脈』とはどのようなものを指すのか二つの作例を上げて考えてみることにする。


3. 『文脈』は世界のサイズを予告する

 関根信夫「位相―大地」 (図1)という作品がある。※1
1968年に制作された「位相―大地」は簡単に述べると以下のような作品である。
深さ2.7メー トル、直径2.2メートルに掘られた穴と、その穴から掘り出された土で全く同じ高さと直径に固められた円柱が大地に置いてある。ただそれだけの作品である。
そしてこの作品を美術史的な観点から言うと、一般的に「もの派」の作品としてカテゴライズすることが出来る。
 この作品は私の生まれる以前の作品であり、私はこの作品を生で見たことがない。この時代の作品には日本や欧米問わず、アースワークやランドアートといった土地そのものに手を加えるスタイルの流行がある。もちろん「もの派」にも同じような類似点が見受けられる。もう少し大きな『文脈』を意識して言えば、絵画や彫刻のような既存の表現に対する、反芸術的な表現に時代的要請があったと言える。しばしばそのような作品は美術館への収蔵が不可能なスケールになり、(美術館に展示しないこと自体にも意味を持つ。)写真そのものが作品と同等の意味を持つこともある。私自身、「アースワーク」や「もの派」のような20世紀後半に起こったダイナミックで劇的なアートの変遷に感動を覚えることもあるのだが、その物語こそが誰かによって紡ぎ出された『文脈』に他ならない。
私が初めて「位相―大地」を見たのは、そのような背景にある『文脈』を理解するはるか以前のことだった。穴と土の塊がただ置いてある。そう実感させるにたる造形的な強度が写真から伝わってきた。ただそれだけである。ただそれだけが私がおよそ独自で語れる「位相―大地」についての『一回性』にまつわる感動の全てと言ってよい。それ以降のこの作品への賛辞はおよそ『文脈』的な言い回しになるだろう。「もの派」の作家が抱く「もの」へのこだわりや、美術史的にどのような意味を持つのかといったことは、個人的な感動の前にはほとんど効力を持たないだろう。
さらにもう一つの作例としてベン・シャーン「ラッキードラゴン」 (図2) ※2を上げる。
1954年にマーシャル諸島のビキニ環礁附近で行われた、アメリカの水爆実験によって被爆した日本のマグロ漁船、第五福竜丸の漁師をキャンバス中央に描いた作品である。
 この作品は言うまでもなく、ある社会的事実に基づいて描かれている。私はこの作品を中学校の美術の教科書で初めて見た。友人とベン・シャーン独特の絵画表現について感動のようなものを覚えたのをよく憶えている。つまりはアメリカの水爆実験という社会的な背景なくしても、この作品には一枚の絵画として充分に人を引き付ける何かを持っていたと少なくとも中学生の私には思えたのだ。だがこの作品についてそれ以上の何かを言おうとする時、それは被爆やかつての戦争といったような強烈なイデオロギーの中に回収されていくことになるのだが。社会派リアリズムの作家として認知されているベン・シャーンにとって被爆者を描いているのだから、そのストレート過ぎる表現方法以外の意味など必要ないのかもしれない。だがそれ故に作家の意識、無意識に関わらず、新聞の写真記事同様にこの絵画の可能性は被爆やかつての戦争と言った『文脈』上でのみ語られるような限定されたものになる。実は作家の存在自体もまた作品にとっては『文脈』として機能している。ゴッホの絵を見た時に条件反射的に交わされる「この人は孤独な人生を歩んだ孤高の絵描きだ。それゆえにこの作品は素晴らしい!」といったような言い回しを思い浮かべれば、それが作品の『一回性』の出会いとは、ずいぶん距離のあることだと気づくはずだ。作家と作品の関係については論旨の都合上ここまでに留めておくが、上記した2例を通じたまとめとして美術やアートには『文脈』に依存した鑑賞法と『一回性』に依拠した鑑賞法があることを指摘した。ではさらに『文脈』と『一回性』の構造について考えてみることにする。


4. 許されない「個人」の越境行為

 美術やアートの価値を『一回性』のみに置けば、鑑賞者個人が初めて出会うもののみと、制作者が人類史上初めて創ったもののみに価値が置かれる。反対に『文脈』に価値を置けば、体系付けされ継承された近代美術や白鳳文化、日本画といったカテゴライズされたものに重点が置かれる。それらを作家は、ブラッシュアップしていくことに意味があると考えるだろう。(もちろんその中には反芸術といったような芸術に対するアンチテーゼも、前提が前史の否定である以上『文脈』にのっとった行為と言える。)
この二つの相反しているように見える価値観は、その帰属を鮮明にすることによって本来の有り様が浮かび上がってくる。
極端に言ってしまえば、最大限大きな『文脈』とは、社会や文化、歴史そのものであり、優れた文筆家によって、統計付け体系付けされ、集合知として継承される。逆に『一回性』のよりプリミティブな体験は「個人」に訪れる。いささか乱暴だが、『文脈』は「社会」に帰され、『一回性』は「個人」に帰されると考えることが出来る。つまりこの二つは本来純粋な対立概念ではない。『一回性』は『文脈』に比べ、圧倒的な劣位にいると言えるだろう。『一回性』=「個人」と『文脈』=「社会」といった言葉からも想像できるように、「社会」とは不特定多数の集団で構成される。「個人」は「集団」を含まないが「集団」は「個人」を内包している。「集団」とは統計学的なものであり、絶えず文章の頭に「平均的な」という言い回しが必要になる。「平均的な」男とか、「平均的な」家庭と言ったように表される。だがその逆に「個人」は、相対化しようのないものとして存在しているため、平均的な「個人」といったようなものは存在しない。つまり「集団」>「個人」という図式が成り立つということは、『一回性』も前提には『文脈』を強く意識したものでもあると言えるだろう。そういった意味では、「集団」「個人」といった枠組みや個人のアイデンティティを前提とした問題は絶えず、強い近代的な拘束を受けていることになるのだが、美術という枠組もまた、近代の生んだ産物であり、「個人」「集団」というような問題をもともと潜在的に持っている分野として見ることもできる。
例えば、私と言う人間がどれほど現在の文明に背を向けて生活していたとしても、それが世界と呼ばれるどこかである以上、積極的あるいは消極的問わず、社会活動に参加をしていると言えるだろう。至極当然のことのようだが「個人」がそれを想像する事は結構難しい。例えば、とある景観を私と言う人間が俯瞰して観察するとき、ほとんどの場合、私を含めない景観を思い浮かべるだろう。しかし、とある景観とは私の背後にも広がり、俯瞰しているはずの私をも含むものだったりする。この景観にあたるものが、歴史であり社会であり『文脈』であったりする。
 自身をも含む客観的な視座を獲得するのはとても難しいことである。自身が生きている時代の事細かな事象の何に、影響されて立っているかを、自ら解き明かすのはほぼ不可能と言えるだろう。「個人」の作為を超えたような神様的な視座を持った『文脈』を前提にしてしまえば『一回性』もまた、神様的な視座の中に跡形も無く回収されてしまう。実は『文脈』が無ければ、美術作品を美術作品として認識することすら出来ないだろう。
「位相―大地」や「ラッキードラゴン」を観た時に感じた衝動のようなものは、現代人の持つ同時代性のようなものが、私の琴線に触れただけだったのかもしれないし、個人が意識することも出来ない程遠縁の『文脈』に触れただけなのかもしれない。


5. まとめ

『一回性』の感動自体が、『文脈』を前提とした価値観に付随したものであるというのは両者が明確な住み分けをすることが出来ないことを指している。
美術やアートを学問として取り扱うということは上記したような「個人」が俯瞰しようもなく、逃れる事の出来ない『文脈』が存在しているということをまずリテラシーとして持つことかも知れないが、そのような入れ子構造をいちいち作品を目の前にするたびに意識することは、大変まだるっこしい感覚を抱くだろう。
他の学問においてもおそらく同様な問題は生じうるが、実学的な側面を強調した学問であれば、おそらくこのようなジレンマは、実利という絶対的な物差しにおいて解消されるだろう。美術やアートのような実学的な明快さのない分野には、「絶えず無垢な純血性」と、経済原理を前提とした、「錬金術的に貨幣価値として置き換えること」への問いが付いて回る。それらが結果として美術やアートを社会から乖離させ、学問として扱うことへの違和感として残り、そのような住み分けることの出来ない事柄が美術やアートの居住まいの悪さの源泉となっていると思われる。
近代以降、他のジャンルと同じく美術やアートにおいてもまた、神の秩序、王の権威を廃し、ひたすらにモダニズムをつきつめ、ハイカルチャーからローカルチャーへと価値基準を移行させようという試みは幾度となく行われたが、皮肉にもそのような近・現代的なアートの難解さを理解しえたのもまた、旧来の富裕層であり、それらの権威によって延命させられているところが大きい。アートや美術には、100円ショップの中に1億円の商品が唐突に混じっているような、経済的な居住まいの悪さが存在し、そのような超えられそうで超えられない壁に対して、どう向き合うかが試されているようにも思える。 


6. 参考文献・参考URL

※1 環境美術研究所 http://www.e-art-studio.co.jp/
※2 福島県立美術館、ブレーンイラスト編『ベン・シャーン展』
  ベン・シャーン展カタログ委員会 1991年 
  ベン・シャーン、ベルナルド・ブライソン(桑原住雄訳)『ベン・シャーン画集』
  リブロポト 1981年




仕事先に研究起用として書いた文章ですが、せっかくですので載せました。新たな提案というよりも現状把握的な意味合いの文章になってます。
「文脈」と「一回生」に関しては、友人の小林氏とのブログでのやり取りから着想を得ている部分があります。



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by shino-miya | 2010-10-11 14:28 | アート


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